徳川幕府・歴代将軍クイズ 15代続いた徳川将軍名を答えるクイズ

歴代の全15代徳川将軍(徳川幕府)の名前を答えるクイズです。約260年続いた徳川幕府の歴代将軍の名前を答えてください。

徳川幕府歴代の将軍の名前をこたえてください

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1代将軍

徳川幕府初代将軍で、江戸に幕府を開いた人物。

今川義元の人質として幼少時代を過ごしていた。
信長が桶狭間の合戦において義元を打ち破り、その際に今川軍が放棄した岡崎城に入場し今川から独立する。

若いころ三方ヶ原の合戦において武田信玄に挑んだが、惨敗を喫し、うんこをもらして帰ってきたと伝えられる。
その敗戦の戒めとして絵師にそのときの肖像画を描かせた。

豊臣秀吉の死後、関ヶ原において石田三成率いる西軍と戦い、この戦に勝利し、天下をその手中に収める。

その後、江戸に幕府を開き、征夷大将軍となる。

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2代将軍

初代将軍の三男として生まれたが、長兄の信康は死亡しており、次兄の秀康は結城家の養子にいっており、二代目将軍を就任した。

初陣となった関ヶ原の合戦では38,000人の兵を率いて関ヶ原へ向かう途中、真田昌幸率いる2,000人の兵が守る上田城を攻めるも、城を落とすことができず、関ヶ原へ急いだがすでに戦は終わってしまっていた。
このことから、初代将軍はもとより、数多くいた兄弟の中でも軍事面においては無能という評判を受けることになった。

二代目は恐妻家であったと言われ、正室のお江の方には頭が上がらなかったとされている。
当時としては珍しく側室を持たなかった。

五女の和子を天皇の後水尾天皇の妃として入内させ、天皇の外戚となる。その一方で朝廷に対して厳しい引き締めを行っていた。

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3代将軍

二代将軍の次男として生まれたが、長男・長丸がすでに早世しており、世子として扱われる。

しかし幼少時に吃音があり、容姿に優れなかったため、弟の忠長に将軍職を譲ろうと両親が考えていたが、三代将軍の乳母である春日局がその動きを初代将軍に直訴し、初代将軍の一声で正式に世子としての位置が決まった。

青年期には男色の気があり(戦国時代では珍しいことではない)中年を過ぎても世嗣を儲けなかった。

幕藩体制と呼ばれ、後の世まで続く徳川幕府の定めた掟を初代、二代目、三代将軍によって完成させた。
鎖国や参勤交代、士農工商の身分制度などが該当する。

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4代将軍

三代将軍の長男として生まれ、11歳にして四代将軍に就く。
叔父の保科正之や三代将軍時代からの大老、酒井忠勝、老中の松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら寛永の遺老といわれる名臣の補佐により、以後29年間にわたる安定政権をみた

温厚な人柄で、絵画や魚釣りを好み、政務を酒井忠清をはじめ、老中らに任せ、自らは「左様せい」で決裁していたことから「左様せい様」という異名が付けられたという。

「武野燭談(ぶやしょくだん)」に拠れば、将軍就任から間もない幼少期のことであるが、江戸天守閣へ登った際、近習の者が遠眼鏡をすすめたが、「自分は少年ながら将軍である。もし将軍が天守から遠眼鏡で四方を見下ろしていると知れたら、おそらく世人は嫌な思いをするに違いない」と遠眼鏡を手に取らなかったという。

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5代将軍

江戸幕府の第五代将軍。
世に有名な生類憐みの令と呼ばれる、様々な生き物の殺生を禁じる法令を策定した。
特に犬の保護に力を入れていたため(五代将軍が戌年生まれのため)犬公方とあだ名をつけられる。

この生類憐みの令が元禄の大飢饉の際にも行われ、鳥獣を食べるために獲ることも許されず、害獣の駆除もできない。
さらに長く続いた生類憐みの令ために、鳥も獣も人を恐れることがないから、飢餓で彷徨する人は息のあるうちにさえカラスやトンビに襲われ、倒れれば野犬の餌食になったという。

悪名高い将軍として評価されている五代目ではあるが、天和の治(てんなのち)と呼ばれる善政をも行っており、現在は評価の再検討が行われている。

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6代将軍

五代将軍は「生類憐みの令」を厳守することを遺言したが、六代将軍は葬儀の二日前に先代の柩の前で側用人の柳沢吉保に対して次のように言ったという。

「生類憐みの令の禁令に触れ、罪に落ちたものは数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする」。
この時、罪を許された者は八千数百人にも上ったという。

先代から養子として迎えられ江戸城西の丸に入ったとき、また下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝いの品を持ってきたとき、これらの品を受け取らなかったといわれる。
後に将軍になると人事を一新し、不正を厳しく取り締まったといわれる。

48歳の時に就任し、51歳で死したため、在任期間が3年と短く、政治手腕のほどは未知数であった。
幕政改革に熱心だったことから、歴代将軍の中でも名君と評されている。

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7代将軍

徳川十五代将軍の中で最年少で将軍になった人物で、弱冠四歳で将軍に就いた。
その後、風邪を悪化させてしまい八歳にしてこの世を去った。
在任期間も短く、幼かったこともあり目立った功績は残していない。

四歳の将軍では政治を取り仕切れるはずもなく、幕政は生母・月光院や側用人に間部詮房(まなべあきふさ)、顧問格であった新井白石らが主導している。

真偽はともかくとして、若く美しい未亡人であった月光院と独身の詮房の間にはスキャンダルが絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした絵島生島事件(えじまいくしまじけん)が起こるなどした。

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8代将軍

御三家の中から初代将軍に一番血統が近いという理由で、御三家筆頭の尾張家を抑えて、八代将軍に就任したと一般的には説明されている。

悪化した幕府財政の立て直しなどの改革を図り、江戸三大改革の一つである享保の改革を行った。

四代将軍時代から続いていた学問を奨励する文治政治を見直し、武芸を奨励する武断政治を志した。
一方で年貢を五公五民にする増税政策によって、農民の生活は窮乏し、百姓一揆の頻発を招いたが、江戸幕府の三大改革の中で最も成功した人物と高く評価されている。

いろは47組の町火消しや、目安箱の設置を行った。
また、米価の調節に努めたため、「米将軍」とも呼ばれている。

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9代将軍

八代将軍の長男として生まれ後を継いだ。
言語不明瞭で、言葉が聞き取りづらく、弟の宗武は聡明であったため老中・松平乗邑(のりさと)によって廃嫡されかけられたこともあった。

しかし、長子相続ということで、延保2年11月2日(1745年11月24日)に八代将軍は隠居して大御所となり、九代将軍に就任した。

頭蓋骨や骨盤が女性のような形であったことから、女性将軍であったという説もある。

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10代将軍

幼少時よりその聡明さから、八代将軍であった祖父の期待を一心に受け、寵愛されて育った。

父・九代将軍の遺言に従い、田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らとともに政治に励んだ。
しかし、松平武元が死去すると、次第に幕政を老中に任命した田沼意次に任せ、自らは好きな将棋などの趣味に没頭することが多くなり、結局八代将軍の期待には応えられなかった。

暗君扱いされることも多いが、趣味の分野では高い能力を示しているため、将軍として主体的に権力の行使を行わなかったことについて、ただ単にやる気がなかったとする説もある。

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11代将軍

在位期間が50年と歴代将軍の中で一番長い在任期間であった。

特定されるだけで16人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子を儲け、その息子たちの養子先に選ばれた諸国の大名の中には家督を横領されたものもあった。

また、そのほかにも妾がいたとも伝えられており、一説には40人とも言われている。

ご落胤は数知れず、それら莫大な子供たちの養育費が逼迫していた幕府の財政を更に圧迫することとなり、やがて幕府財政は破綻へ向かうこととなった。

幕政をほとんど主導せず、松平定信や松平信明らの幕閣に任せて自らは大奥に入り浸っていた。

性力増強のため、オットセイのペニスを粉末にしたものを飲んでいたため「オットセイ将軍」と呼ばれた。

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12代将軍

天保8年(1837年)に45歳で将軍職を譲られたが、先代が大御所として強大な発言権を保持していた。

趣味に生きた将軍で政治を省みなかった。
そのため、諸大名の間では評判が悪く、家臣の意見を聞いても「そうせい」というのみであったから、「そうせい様」と呼ばれて暗愚と見られている。
ただし、父が存命中には実験がなかったため、そう答えるしかなく、父の死後はある程度の指導力を発揮している。

嘉永6年(1853年)6月3日、アメリカのペリーが4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れ(黒船来航)、幕閣がその対策に追われる中、6月22日に病のため逝去。
享年61歳。
暑気あたりで倒れたのが死の原因と言われている。

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13代将軍

幼少時から病弱で、人前にでることを極端に嫌う性格だったと言われている。そのため、乳母である歌橋にしか心を開かなかったらしい。

病弱だったうえ、もともと悪かった体調が将軍就任以後、さらに悪化して、ほとんど廃人同様になったとまで言われている。
一説には脳性麻痺だったとも言われ、将軍として指導力を示すことが出来なかった。

カステラを作ったりするなど、菓子作りが趣味だったとされている。
また煮豆やふかし芋などを作り、自分だけ食べずに、時には家臣たちに振る舞っており、松平慶永(春嶽)から「イモ公方」などと呼ばれた。

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14代将軍

譜代筆頭の井伊直弼らの支持を受けて13歳で第十四代将軍となる。
血筋だけでなく英明な風格を備えており、勝海舟をはじめ幕臣から信望厚く、忠誠を集めたと言われている。

文久2年(1862年)に公武合体の一環として和宮と結婚。
政略結婚ではあるが、和宮に対してたびたび贈り物をするなど細やかな気配りをし。二人の関係は良好であった。

わずか20年の生涯であったが、幕末の動乱期の中をその若さでくぐり抜けていることは高く評価されている。
勝海舟からは「若さゆえに時代に翻弄されたが、もう少し長く生きていれば、英邁な君主として名を遺したかもしれない。武勇にも優れていた人物であった」と評価されている。

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15代将軍

江戸幕府十五代にして最後の将軍となった。

幕末に将軍として就任したが、薩摩・長州を中心とする倒幕勢力が武力倒幕路線に進むことを予期し、政権を朝廷に返上した。(大政奉還)

英邁さで知られ、実父・斉昭の腹心、安島帯刀は、「徳川の流れを清ましめん御仁」と評し、幕威回復の期待を一身に背負い、鳴り物入りで将軍位に就くと、「権現様の再来」とまでその英名を称えられた。

鳥羽伏見の戦いで敗れて江戸へ逃げ帰り、「敵前逃亡」と敵味方から大きく非難された。
この時、初代以来の金扇の馬印は置き忘れたが、お気に入りの愛妾はわすれずに同伴していた、と惰弱さを揶揄するものもあった。

父・斉昭と同じく薩摩藩の豚肉が好物で、豚一様と呼ばれた。

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