辞書をつくるというのは膨大な時間と労力が必要
辞書を作るというこがどれくらい大変か、ごく簡単に思ったことはあるかもしれないですが、具体的に想像を巡らせたことはありません。
どんな言葉をのせて、どんな解説を載せるか。
辞書一冊にどれくらいの言葉を掲載して、どういうコンセプトでその辞書が作られているか。それぐらい辞書に対して思いを巡らせたことはありません。
この「舟を編む」という映画は辞書制作にかかわる人間を追ったヒューマンドラマです。
但し、辞書制作がどれだけ大変かを伝えるための映画ではありません。
そういう側面もあろうかと思いますが、それはあくまで表層の話で、例えていえば、コーヒーゼリーのコーヒーフレッシュの部分程度。ほんのちょっとの味付け程度で本当においしいところはそのもっと先にあります。
コーヒーフレッシュの部分もおいしいんですけどね。
地味で無口なコミュ症の主人公 馬締(まじめ) 光也
この映画は全体的に淡々としています。激しく揺れ動く激情のようなものはあまり出てきませんが、青く燃えるオクタン価の高い情熱が伝わる映画です。
感情を表に出さない人間は、どことなく冷たく情熱的でないように思われがちですが、本当は逆。
年がら年中口からうっとうしいほど熱い言葉を吐き出している人には一生かかっても理解できないほど、深い情熱を内に秘めていることがあります。(ない場合も多々あります)
この物語の主人公は間違いなく、情熱を内に秘めているタイプの人間で、最初のころは感情表現と、人に伝えることが苦手で、おどおどしながら自分にできることをコツコツと自分の中で進めていこうとします。自分の中だけでやっているうちは人を動かすことができないんです。それも自分でよくわかっている。
そりゃ内向的な人間ですから、自分がどういう人間でどういう立ち振る舞いをしているかは自分が一番理解しています。
人としゃべらない時間の分だけ、自分と会話してますから。
自分のことを理解しすぎて、あきらめているんです。
自分はこういう人間だから。
自分の思いは人には伝わらないし、人の考えていること何てわからない。
そんな会話を下宿先の大家のおばちゃんとしたときに、おばちゃんの至極明快な回答を聞き、自分を変えようと動き出します。
「他の人の気持ちがわからないなんてあたりまえじゃないか。わかんないからその人に興味をもつんだろ?わかんないから話をするんだろ?辞書作りってのは言葉を使う仕事だろ。だったらその言葉使わなきゃ。頑張ってしゃべんなきゃ。」と。
不器用な主人公の不器用な恋をユーモラスに描く
内向的な人間の良いところは、自分を客観視できて、自分のことをある程度理解しているところなんですが、内向的であるがゆえに自分の物差しでしか人を測らない。
他人のことをある一面だけで分かったつもりになって、深入りしないんです。
その尺度をぶち壊す一言を受けたことで、主人公が、無理やり自分に似合わない行動をとり始めることで、回りの見る目が変わっていき、回りの人からの扱われ方も変わっていきます。
この主人公にとって良かった点は、一生かけて成し遂げてやろうという仕事に巡り合えたこと。
辞書制作という膨大な時間がかかる仕事があり、そこに情熱の全てを注ぎ込めること。
それをともに成し遂げようと思ってくれる仲間がいたこと。
それを支えてくれる、よき理解者であり、最愛な人がいたこと。
主人公は不器用なんですよ。想像を絶するほど不器用なんです。
でも、好きな人ができるんです。
ベランダに突然現れた「かぐや」という女性に惚れてしまうわけです。
宮崎あおいがそこにいたら惚れますよ。宮崎あおいさん、薄化粧で超可愛いんです。
女性は薄化粧な人ほど美しいと思うんです。
自然なメイクが一番好きです。すっぴんがキレイな人が好きです。
自分のことはさておき、そんなかわいい女性がそこにいるわけで、不器用ながらも想いを伝えようとするんですが、文学青年がとる行動といえば恋文ですよ。ラブレターです。
和紙に筆で縦書きで、拝啓から始まる名文を達筆な筆さばきで書き綴るんです。
達筆すぎて読めないんですよ。宮崎あおいも激怒ですわ。こんな手紙もらっても読めないよね、ふつう読めないよ。なんて書いてあるかわからないから大将(宮崎あおいは料亭で働いていてそこの大将のこと)に読んでもらったよ。ラブレターをと。恥ずかしかったと。
このシーンがすごく好き。この映画の一番の見どころと私は思っています。
こういった人と人とのコミュニケーションを、丁寧に描いた映画が「舟を編む」です。